緑豊かな山々に囲まれ、正面に海を望む神奈川県鎌倉市。800年以上もの昔から栄えてきた歴史深いこの街は、同時に風光明媚な観光地として全国にその名が知られています。
私の住む神奈川県箱根町からは東へ約50kmの近距離にありながら、これまで足を運ぶ機会がなかなか得られませんでしたが、新緑が目に鮮やかな2018(平成30)年5月21日、旅行大好き人間である私・加藤学は、2006(平成18)年3月に行われた親戚の結婚式に出席して以来、実に12年ぶりに鎌倉の街を訪れました。
その12年前に出席した神前結婚式の行われた場所こそ、今回ご紹介する鶴岡八幡宮なのです。
そしてさらに私自身の記憶をたどってみると、中学校3年生だった1984(昭和59)年4月にも、修学旅行でここ鶴岡八幡宮を訪れていたのです。
鎌倉と言えば何を想い出すか?そう聞かれれば誰もが「大仏さま」、そして「鶴岡八幡宮」と答えるでしょう。
さらに言えば日本の歴史で有名な「鎌倉幕府」、「源頼朝」等々…次々に発想が浮かんできますね。
今回は、「鎌倉殿」とまで呼ばれた源頼朝公にスポットを当てつつ、鶴岡八幡宮を訪ねてみました。
さあ、いっしょに初夏の鶴岡八幡宮へ出かけましょう。
Contents
- 初めての江ノ電で一路鎌倉へ
- 鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ
- 奥に建つ鶴岡八幡宮はいつも気高く
- 風さわやかな五月の鎌倉
- やがて、向こうに八幡宮が…
- 鶴岡八幡宮は鎌倉と源氏の神様
- 努力家で多趣味の頼朝公は理想の上司?
- ここは鎌倉時代の日本の中枢
- 源頼朝と源義経の兄弟
- 源義経と静御前の悲しき恋物語
- 静の許されない恋、でも一途な恋…
- 鶴岡八幡宮境内の名所をめぐる
- 突然現れるリス、幸せの白い鳩
- 悲劇の将軍を物語る神社とお祭り
- 共に戦う者たちよ、ここに集まれ!!!
- 鎌倉の歴史を見守ってきた大木が…
- いつか再び鎌倉の空に大銀杏を…
- 子どもたちから大イチョウへのエール
- 人目を避けるようにひっそりと…
- 鎌倉の歴史は鶴岡八幡宮と共に…
- 旅の終わりに…語り継がれる源頼朝公
- インフォメーション
初めての江ノ電で一路鎌倉へ
5月21日(月)、早朝に自宅を出発し小田原駅からJR東海道線で藤沢駅へ。
今回初めて乗車する江ノ島電鉄(江ノ電)のレトロな電車に揺られること30分弱、9時25分に鎌倉駅に到着しました。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ
これもレトロな雰囲気の江ノ電鎌倉駅西口から出て地下道を抜けると、やがて赤い鳥居の下に出ます。
ここは「小町通り」と呼ばれる鶴岡八幡宮の参道の入口で、商店街の中を歩くこと約10分で鶴岡八幡宮に到着しますが、今回は古くからの参道である「若宮大路(わかみやおおじ)」から鶴岡八幡宮へ向かいましょう。
JR鎌倉駅から東へ約2分、「鎌倉駅入口」信号で若宮大路へ入り、鶴岡八幡宮へ向かいます。
奥に建つ鶴岡八幡宮はいつも気高く
若宮大路へ出ると、すぐ左に鶴岡八幡宮「二の鳥居」が、高くそびえ立ちます。
若宮大路は南にある由比ヶ浜(ゆいがはま)海岸の「一の鳥居」付近から、鶴岡八幡宮までの約1.8kmにわたって鎌倉市内を南北に貫く、まさに鎌倉のメインストリートです。
鳥居の下からは、両側の道路より一段高い通路が、桜並木と共に鶴岡八幡宮へ向かって続いていますが、これは「段葛(だんかずら)」と呼ばれており、鶴岡八幡宮の正式な参道とされています。
鎌倉といえば誰もがあの有名人物を思い浮かべるでしょう。そう、源頼朝(みなもとのよりとも)公です。
鎌倉幕府を開き、以後、日本の歴史に670年以上続く「武家政治」の基礎を作った源頼朝公が、京都の南北を貫く「朱雀大路(すざくおおじ)」を見本に、鎌倉の町づくりの第一歩として、同時に妻である北条政子(ほうじょうまさこ)の安産を祈願して整備された道が、この段葛と呼ばれる参道なのです。
当時30代の働き盛りだった頼朝公も工事に加わり、多くの武士たちと共に汗を流しました。
段葛は奥へ進めば進むほど道幅が少しずつ狭くなっています。これは見る人々に「奥行き」を感じさせて参道を長く思わせ、鶴岡八幡宮を気高く厳かに見せるためだと伝えられています。
風さわやかな五月の鎌倉
この日は朝から晴天。時間の経過と共に気温もぐんぐん上昇し、近づく夏を思わせる暑さとなりましたが、吹く風は5月らしくとてもさわやか。
新緑かおる初夏の鎌倉は、京都や奈良にも劣らない多くの人々で終日賑わいを見せました。
やがて、向こうに八幡宮が…
二の鳥居から約10分余り。「三の鳥居」が姿を現し、いよいよ向こうに鶴岡八幡宮が見えてきました。段葛の終点です。二の鳥居では4mあった道幅が、ここでは3mほど…確かに少し狭くなっていますね。
時代は大きく変わっても、奥に見える鶴岡八幡宮は、何か「オーラ」を放っているように見えます。
信号を渡り三の鳥居をくぐれば、もうそこは鶴岡八幡宮の境内です。すぐ目の前には太鼓橋。1182(寿永元)年に建設され、当時は朱塗りだったとのこと。
この橋の下には同年に北条政子が造らせたという「源平池(げんぺいいけ)」があり、源頼朝公が戦っていた相手「平氏を足下に踏みつぶす」の意味があると伝えられています。
でも今は、戦死していった双方の武将をしのぶように、夏には池一面が蓮(ハス)の花で覆われます。
鶴岡八幡宮は鎌倉と源氏の神様
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、源頼朝公の150年ほど先祖に当たる源頼義(みなもとのよりよし)公が、平安時代後期に東北地方でおきた「前九年の役(ぜんくねんのえき)」という戦に向かう前に、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で戦勝祈願をしたのがルーツとされています。
源頼義公は石清水八幡宮をあつく信仰し、すでに領地にしていた鎌倉にも八幡宮をお祀りしようと考え、1063(康平6)年、海岸近くに「鶴岡若宮」を築いたのが始まりとされています。(現在の鎌倉市材木座一丁目にある「由比若宮元八幡社務所」です)。
そして117年後の1180(治承4)年に、長年の敵であった平氏を戦いの末に追い詰め、次第に権力者となりつつあった源頼朝公によって、現在の場所に移されたのです。
1185(寿永4)年には九州・壇ノ浦の戦いで平氏を倒し、その後鎌倉幕府を開いて、源頼朝公は日本の第一人者となりました。同時に日本の政治の実権を握った頼朝公をはじめとする源氏(げんじ)の武士にとって鶴岡八幡宮は守り神、そして権力の象徴となったのです。
上側に見える建物が本宮(上宮)、下側に見える建物が舞殿(まいでん)。年間を通じて様々な祭事が行われ、共に国の重要文化財に指定されています。
努力家で多趣味の頼朝公は理想の上司?
鎌倉幕府を開いた源頼朝公は、「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という国の最高役職に任命され、鎌倉幕府の頂点に立つ人に対しての敬称である「鎌倉殿(かまくらどの)」と呼ばれるようになります。
…源頼朝公は子どもの頃に、平氏との戦いで父親の源義朝(みなもとのよしとも)や数人の兄弟を亡くしました。自身も命の危険に遭いながら、現在の静岡県伊豆へ追放されますが、「いつかは平氏を倒したい」と思い立ち、数万人もの兵を集めて源氏のリーダーとなり、苦戦しながらも平氏を追い詰め、ついには平氏を倒したのです。
源頼朝公は、鎌倉幕府に忠誠心を持っていつも一生懸命に働く武士を高く評価し、その領地や給料を保証したりレベルアップしたりしました。身分の高くない貧しい武士が、その働きぶりを認められて3つもの領地を与えられたこともあるそうです。
その代わりに武士たちは、鎌倉に緊急事態がおきた時には、いつでもどこでも、「いざ鎌倉!!」という気持ちで、真っ先に鎌倉へ駆けつける準備を整えておいたのです。
また頼朝公は、スポーツや芸事を好みました。富士山麓で大規模な「狩り」を行ったり、現在にも伝えられる「流鏑馬(やぶさめ)」や相撲、舞楽などを実施したのも頼朝公の力によるものです。
特に「流鏑馬」は、走る馬の上から武将が矢を放って的を射るという勇ましい行事で、現在も鶴岡八幡宮では春と秋に行われています。
Youtubeの動画がありますので、ご覧ください。(動画引用…西田忠夫様「2016.10.2鶴岡八幡宮流鏑馬(崇敬者大祭)」2016/10/22公開)より、6分07秒
ここは鎌倉時代の日本の中枢
鶴岡八幡宮から「東鳥居」を出て住宅街を歩くこと約5分。「清泉小学校」前の角に、大きな石碑と案内掲示板があります。
ここは1180(治承4)年におきた平氏との「富士川の合戦」後、源頼朝公が建てた「大蔵御所(おおくらごしょ)」があった場所で、「大蔵幕府跡(おおくらばくふあと)」と呼ばれています。
頼朝公はここに住み、ここで政治を行いました。鎌倉幕府が開かれてからは、まさにこの場所が日本の政治の中心となったのです。
JR東海道新幹線から望む富士山と富士川(静岡県富士市)。この川で合戦が行われました。
この合戦の直後、源頼朝公は、ずっと会えなかった弟・源義経(みなもとのよしつね)と初めて出会います。
源頼朝と源義経の兄弟
鎌倉幕府そして日本の頂点に立つ源頼朝公。しかし自身に反対する者には厳しく対処しました。
その頼朝公と対立関係になった人物といえば、頼朝公の弟に当たる源義経(みなもとのよしつね)でしょう。
各地で繰り広げられた源氏と平氏の戦い。その多くの戦いで、現在にも語り継がれる大活躍をした武将こそ源義経でした。
既に鎌倉を拠点にしていた頼朝公は、戦のことはすべて義経にせて、自身は鎌倉の政務や街づくりに集中できるほど、義経は優れた武将だったのです。
その後、頼朝公の代理として京都での任務についた義経はとうとう平氏を倒しますが、義経の活躍ぶりを高く評価した皇族の権力者・後白河法皇(ごしらかわほうおう)から、頼朝公の許可なく「左衛門少尉・検非違使(さえもんしょうい・けびいし)」という高い階級と役職を授けられます。
このことに頼朝公は激怒し、やがて鎌倉へ帰ろうとした義経に、鎌倉に入ることを許しませんでした。
しかたなく義経は、現在の鎌倉市西部の「腰越(こしごえ)」にある「満福寺(まんぷくじ)」というお寺にとどまり、「これからは、鎌倉や頼朝公のために一生懸命に働きますので、どうか鎌倉へ帰ることをお許しください」という手紙を頼朝公に送りますが、頼朝公はそれでも義経を許さず、ついには鎌倉政権に逆らう敵として討つように、武将全員に命令したのです。
源義経と静御前の悲しき恋物語
平氏を倒し、京都ではたちまちヒーローとなった源義経。ちょうどその頃、義経に恋する一人の女性がいました。
京都でいちばんの人気を誇る白拍子の「静御前(しずかごぜん)」です。
「白拍子(しらびょうし)」とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて「歌舞(かぶ)」を演じた芸人のことで、烏帽子をかぶり腰に刀を差すという男性のいでたちで、「今様(いまよう)…その時代の流行の歌や舞」を披露していました。
静は、皇族の権力者である後白河法皇からも「そなたは京都一の白拍子だ」と絶賛されるほどでした。現在で言えば静はまさにトップアイドルだったのでしょう。
そのトップアイドル静と、時代のヒーロー源義経の恋物語。もしも現代ならば連日テレビで2人の動向が報道されているでしょうね。
しかし、義経が源頼朝公から命を狙われる立場になると、義経はこれ以上京都にいることが出来なくなり、やがて逃亡生活が始まります。
静もいっしょについて行きましたが、雪の降りしきる奈良県の吉野山で、義経と静は別れなければならなくなります。
その後捕えられた静は、義経の無事をひたすらに祈りながら、鎌倉へ連れて行かれるのでした。
静の許されない恋、でも一途な恋…
1186(文治2)年4月8日、春の盛りのこの日に静御前は鶴岡八幡宮舞殿で、いよいよ源頼朝公と北条政子夫妻そして主な源氏の武将たちの前で、白拍子として舞楽を披露することになりました。
静は頼朝公から、「鎌倉の繁栄を祝う舞を見せよ」と命じられます。しかし、静が舞ったのは…。
吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
静や静 しずのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな
何と、吉野山で別れた源義経をなつかしむ舞だったのです。
「静よ、静よといつも呼んでくださった義経さまに恋した、あの頃に戻りたい…」そんな静の想いが込められた舞でした。
頼朝公は「義経は反逆者であるぞ、そのような舞を舞うとは何事か!!」と怒りをあらわにしますが、妻の北条政子は「恋する人を慕う姿に心打たれた。見事であった!!」と、静を褒めたたえたのです。
これには、さすがの頼朝公や武将たちも、返す言葉がなかったようです。
1189(文治5)年6月、源義経は奥州(現在の岩手県平泉町)で大軍に攻め込まれ、自ら命を絶ちました。一方、静御前はその後どこへ行ったのか、どんな人生を過ごしたのかは全く不明です。
でもせめて天国で、義経と静が永遠に幸せでありますように…
鶴岡八幡宮境内の名所をめぐる
鶴岡八幡宮には、本宮や舞殿の他にも名所がいくつかありますのでご紹介しましょう。
(1) 明治天皇鎌倉御野立所
本宮のすぐ東側に、1つの石碑が静かに建っています。ここは1873(明治6)年4月15日、日本で初めて鎌倉で行われた「陸軍野外演習」を明治天皇がご覧になった場所で、「御野立所(おのだちしょ)」と呼ばれています。
しかし、どんな光景だったのでしょうね…。
(2) 鶴亀石と由比若宮遥拝所
本宮から大石段を下り、左へ進むこと約2分。注連縄(しめなわ)に守られた木立ちの中に「由比若宮遥拝所(ゆいわかみやようはいしょ)」があります。
この鶴岡八幡宮の始まりとされ、約1.2km南の鎌倉市材木座にある「由比若宮八幡社務所」をこの場所から拝むことができるのです。
そのすぐ左側には「鶴亀石(つるかめいし)」という、とても縁起のいい名前の2つの石があります。
水で丹念に洗うと、「鶴や亀のような輝きを放つ」と伝えられています。
突然現れるリス、幸せの白い鳩
柳原神池(やないはらしんち)という池のそばに来た時、突然!! リスが現れました。
まるで「写真をとって!!!」というように、しばらく目の前にいたのです。
これは「タイワンリス」です。しかし「可愛い」とばかり言ってはいられません。
タイワンリスは本来、日本にはいないはずの「外来種」だからです。鎌倉市では現在、外来動物や外来植物への対策に取り組んでいます。
鶴岡八幡宮では、鳩(ハト)を実に多く見かけます。
それもそのはず、鳩は「八幡様の使い」とされており、本宮に掲げられた額の「八幡宮」の「八」の文字は、よく見ると「鳩の形」をしていますね。
鶴岡八幡宮には「白い鳩」がいます。「平和のシンボル」「幸せの使者」とも呼ばれています。
カップルで訪れて白い鳩に出会えば、きっと幸せが待っていることでしょう!!!
悲劇の将軍を物語る神社とお祭り
引きつづき、鶴岡八幡宮の名所を見てまいりましょう。
(3) 白旗神社
本宮から東へ歩いて約5分。「白旗神社(しらはたじんじゃ)」に到着します。ここには鎌倉幕府初代将軍である源頼朝公と、三代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)公が祀られています。
実朝公は1219(建保7)年1月27日の鎌倉に大雪が降る夜、鶴岡八幡宮大石段で28歳という若さで殺害されてしまいました。
神社のすぐそばには、日本の実業家で俳人、源実朝公についての研究を行った菅礼之助(すがれいのすけ)さんが、和歌を好んだ実朝公をしのぶ歌碑が建てられています。
そして鶴岡八幡宮では、源実朝公の誕生日に当たる8月9日に、参道両側に雪洞(ぼんぼり)を並べての「実朝祭」が行われ、多くの人々が若くして倒れた実朝公へ想いを寄せます。
平氏と戦った源氏の旗が「白い旗」だったことが名の由来。後に天下人となった豊臣秀吉が参拝したこともあるようで、勝負事や受験に御利益があると伝えられます。
共に戦う者たちよ、ここに集まれ!!!
(4) 旗上辨戝天
「三の鳥居」から鶴岡八幡宮の境内に入ってすぐ、「源平池」にかかる橋を右へ渡ると、鎌倉七福神の一つである「旗上辨戝天(はたあげべんざいてん)」に到着します。
源頼朝公が平氏打倒の兵を集めたことに因んで名付けられました。ここから頼朝公の戦いが本格的に始まったのでしょう。
色鮮やかな朱塗りの社殿は、1980(昭和55)年に、古い資料をもとにして再建されました。
境内いっぱいにはためく「源氏の旗」に、勝利や出世の願掛けをする人が多く訪れます。
また、社殿のそばには「政子石(まさこいし)」があります。この八幡宮への参道「段葛」と同じように、頼朝公が妻・北条政子の安産を祈願して置いた石と言われており、子宝と安産、夫婦円満のご利益があると伝えられるためか、若い夫婦連れの姿が目立ちます。
鎌倉の歴史を見守ってきた大木が…
鶴岡八幡宮の本宮へ向かって上る「大石段」のちょうど中間左側…ここにはかつて「大銀杏(おおいちょう)」というイチョウの大木がありました。
鎌倉幕府三代将軍の源実朝公が、この大木の陰に隠れていた「公暁(くぎょう)」という人物に殺害されたと伝えられ、「隠れ銀杏」とも呼ばれています。
樹齢1000年以上とも言われ、高さは30m近くあった大銀杏。秋には美しく黄葉し訪れる人々を感動させました。
鶴岡八幡宮の歴史と共に、鎌倉の街の歴史を見守ってきた「生き証人」とも言える大木でしたが、2010(平成22)年3月10日早朝、猛烈な突風で倒れてしまったのです。
無残に倒壊してしまった大銀杏の様子が、当日のニュースで全国に伝えられ、鎌倉を愛する多くの人々に大きなショックを与えました。
いつか再び鎌倉の空に大銀杏を…
しかし鶴岡八幡宮をはじめ鎌倉の人々は、再生へ向けて早速動きました。
倒れた大銀杏の「幹」は根から高さ4mの部分で切断し、枝もすべて切り落として、植わっていた場所のすぐ横に移植します。
すると約1ヶ月後の4月1日に、わずかに残っていた根元から新芽が出てきたのです。ただこの芽はやがて枯れてしまいました。
それでも2012(平成24)年2月に、再び根元から「ひこばえ」と呼ばれる新芽が生えているのが確認され、その後すくすくと成長し、今では横に移植された「幹」を超えようかという高さになっています。
さらにはその「幹」からも、新たな枝と葉が出はじめているのです。
全国から寄せられた多くの支援もあって、大銀杏は新たな命を確実に空へと広げています。
今後まだ長い期間にわたって研究、整備、観察が必要とのことですが、鎌倉の空高くそびえる大銀杏が、新たにお目見えするのはいつのことでしょうか。
子どもたちから大イチョウへのエール
幹は「親」として、新たに誕生した「子」の成長を応援しているかのようです。
地元の子どもたちが思い思いに書いたメッセージ。
人目を避けるようにひっそりと…
鎌倉幕府を開き、日本の政権の頂点に立った源頼朝公は、1198(建久9)年12月、相模川(さがみがわ)に新しく架けられた橋の完成儀式に出席した帰り道、突然落馬して意識を失い翌年亡くなります。53歳でした。
鶴岡八幡宮から「東鳥居」を出て住宅街を歩き、頼朝公が政治を行った「大蔵幕府跡」から続く道をさらに奥へ進むと、向かいの山の中に「源頼朝公のお墓」があります。
しかしそれは日本の政権を握った人のお墓とは思えない、とても質素なお墓です。
実は頼朝公には源義経の他に、子どもの頃に別れたきり一度も会うことのなかった「源希義(みなもとのまれよし)」という弟がいました。お墓の前には、その源希義をしのぶ説明看板と石が置かれています。
お墓までは石の階段を上りますが、その段の数は頼朝公の年齢と同じ「53段」です。
鶴岡八幡宮の明るさ華やかさとは反対に、薄暗く静かな山の中にひっそりと建つ頼朝公のお墓。
本当は弟想いだったという頼朝公。しかし、自身が政治を進めるためには弟でさえも討たなければなりませんでした。
離れたまま二度と会えなかった希義、有能ではあったけれど討ってしまった義経…頼朝公のお墓がこれほど質素なのは、二人の弟へのせめてもの申し訳なさなのかもしれません。
鎌倉の歴史は鶴岡八幡宮と共に…
源頼朝公の死後、源氏は急激に衰退し、代わって「北条氏(ほうじょうし)」が強大な権力で鎌倉幕府をリードしますが、150年にわたって続いた鎌倉幕府も滅亡の時を迎えます。
1000年近い歴史を誇る鶴岡八幡宮はその後、人々から忘れられかけていた時代が長く続き、大きな火災や地震にも何度も襲われました。
それでも江戸幕府によって手厚く保護され、再び多くの人々の信仰を集めるようになったのです。
…鎌倉は昔から「一方は海、三方は険しい山に囲まれる」というその地形から、「天然の要害」と呼ばれ、「外敵から攻め込まれにくい街」とされていました。鶴岡八幡宮を開いた源頼義公も、鎌倉幕府を開いた頼朝公もそこに注目したのでしょう。
街の入口から奥を見れば鶴岡八幡宮が高くそびえ、この街に容易に足を踏み入れられなかった昔が、確かに想像できます。だからこそ鎌倉の街は長く守られたのでしょうね。
そして今、鎌倉市は人口約17万2000人、国内外から訪れる人は年間約2300万人という、わが国を代表する観光都市となりました。
昔は権力の象徴だった鶴岡八幡宮も今は、訪れる人々には「ようこそ鎌倉へ!!」、去る人々には「またいつか鎌倉へ!!」と呼び掛けるような、歴史と観光の街・鎌倉の象徴となっています。
旅の終わりに…語り継がれる源頼朝公
12年ぶりに訪れた鶴岡八幡宮。私は今回、「鎌倉幕府を開く」という日本の歴史に輝く大事業を実現した源頼朝公にスポットを当てましたが、鶴岡八幡宮やその周辺を歩くうちに、それまで歴史の教科書の中だけでしか知らなかった源頼朝公の横顔や、頼朝公をめぐる様々な人間模様を垣間見た気がします。
大きく激しく変わった今の世の中を、源頼朝公はどうご覧になっているのでしょうか?
…源頼朝公のお墓のある山のすぐ下からは、子どもたちの元気な声が聞こえてきます。頼朝公から名を頂いた「よりとも児童遊園」があり、地元の子どもたちの遊び場となっていますが、公園の手前に建つ掲示板には、頼朝公を慕う地元の人々によって作られた、似顔絵まで描かれた「頼朝こぼれ話」が見られます。
子どもの頃から多くの試練に遭いながらも、努力して力をのばし、ついには日本の頂点に立った源頼朝公の人生は、地元の人々や子どもたちに確かに受け継がれ、語り継がれているのです。
これを読めば、あなたもきっと「頼朝博士」になれますよ!!!
最後に、1910(明治43)年に「尋常小学唱歌」として作られた、『鎌倉』という歌の一節をご紹介しましょう。
(三番) 由比の浜辺を右に見て 雪の下村過ぎ行けば 八幡宮の御社(おんやしろ)
(七番) 歴史は長き七百年 興亡(こうぼう)すべて夢に似て 英雄墓は苔(こけ)むしぬ
インフォメーション
アクセス
今回、私が歩いたコースを紹介します
(見学時間、休憩時間等は省く)
江ノ電鎌倉駅(2分)小町通り鳥居(1分)JR鎌倉駅前(2分)二の鳥居(段葛・10分)三の鳥居(10分)鶴岡八幡宮本宮(3分)由比若宮遥拝所(1分)白旗神社(1分)鎌倉国宝館前(5分)東鳥居(5分)清泉小学校前・大蔵幕府跡(3分)源頼朝公墓(10分)東鳥居(10分)旗上辨戝天(2分)三の鳥居
鶴岡八幡宮
詳細は「鶴岡八幡宮ホームページ」をご覧ください。
鎌倉国宝館
鶴岡八幡宮境内、白旗神社のすぐ前にある市立博物館。鎌倉時代~室町時代の絵画や彫刻、古文書などの文化財約4800点を保管・展示しており、常設展の他、特別展も随時開催しています。
- 観覧料 一般…400円、小中学生…200円 (団体割引は20名以上、身障者割引等あり)
- 開館時間…9時00分~16時30分(入館は16時00分まで)
- 休館日…月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始、他に展示替えや設備点検による臨時休館日あり。
詳細は「鎌倉国宝館ホームページ」をご覧ください。
旅行大好きなアラフィフ男子。生活拠点は国際観光地として有名な神奈川県箱根町、訪れる人々から道や名所について尋ねられる事も珍しくありません。観光名所はもちろん、その地の自然や地理、歴史などの話も含めて、皆様に楽しく伝えられればと思います。