三十三間堂の見どころ&豆知識…心が清められるその厳粛な空気

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Photo by James Long - Sanjusangen-do

四季を通じて賑わいを見せる国際観光地・京都。

特にその中心部には、大規模で歴史古い寺社仏閣が集中しています。

人気の京都市バスで、時間と体力に余裕があるなら徒歩でこれらの歴史名所旧跡を巡れば、手頃な時間と距離、費用で京都観光を楽しめます。と同時に、日本の歴史を彩る有名人物の側面に触れることも出来るので、歴史好きな方にとってはたまらない京都の一時となるでしょう。

市の中心部から郊外まで実に約2500箇所に及ぶ寺社仏閣が存在する京都。見たい、行きたいと思う場所はたくさんありますが、決して焦らず欲張らず、まずは京都駅を起終点に出かけましょう。

京都駅から短時間でアクセス出来る場所といえば…三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)はその代表格でしょうね。

世界最長という規模を誇る木造建築の本堂、厳かな空気の漂う千手観音立像…俗世間を戒めるようなその空気に触れたくなり、神奈川県在住で旅好きの私・加藤学が、京都三十三間堂へ足を運んでまいりました。

建立を任されたのは、あの超有名人

京都市のほぼ中心部、歴史ある寺社仏閣が連なる東山区に建つ三十三間堂は、京都を代表する名所・清水寺にも距離的に近いことから、清水寺の前後に参拝する方も多いようですね。

入口で拝観手続きをした後、広い玄関で専用のスリッパに履き替え、奥へと進みます。

三十三間堂…正式名称を『蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)』と呼びます。

元々は、平安時代末期の天皇で、退位後も絶大な権力を誇った後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の離宮(皇居や王宮とは別に建設された宮殿)が存在していたのですが、1165年1月に後白河上皇の命によって同じ敷地内に建立されました。

ちなみにこの時、三十三間堂の建立に協力した人物こそ、後に平氏のリーダーとして栄華を誇る平清盛(たいらのきよもり)なのです。

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Photo by Fredrik Rubensson – Sanjusangen-do

当時の三十三間堂は五重塔もあって、今よりもっと豪華で大規模だったと伝えられています。

しかし、1249(建長元)年に、京都一帯を襲った「建長の大火」によって焼失し、鎌倉時代の1266(文永3)年に、当時の後嵯峨天皇(ごさがてんのう)によって再建され、以後、幾度の修復工事を経て手厚く保護されながら、現在に至っています。

「三十五間堂」だけど『三十三間堂』

ではそもそも、なぜ『三十三間堂』という名称が付けられたのでしょうか?

これは堂内に立ち並ぶ柱の「柱間(はしらま)」が、数えて「三十三」あるという建築的な特徴に由来しています。しかし、外側から見て柱を数えると「三十六本」あるので、「三十五間堂」と言いたいところですね。

でも『三十三間堂』となったのには、こんな意味が隠されているのです。

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Photo by lecrajane – Sanjusangen-do

建物の外側から見ると確かに三十六本(三十五間)ですが、重要なのは『身舎(もや)』と呼ばれる建物の本体の方で、ここに内側の柱となる『入側柱(いりがわばしら)』が三十四本(三十三間)立つという意味なのです。

下記の図を、数字を柱、●を柱間として見てみましょう。

さらにここには、法華経(ほっけきょう)の『観音菩薩が三十三の姿に変化して、苦しむ民衆を救う』という、『三十三応現身(さんじゅうさんおうげんしん)』の教えが強く影響しているのです。

火災や天災、戦乱が多かった時代、人々は救いと安らぎを求めたのでしょうね。

強い地震にも屈しない耐久構造

築年数は750年以上。本堂の長さは約120mもあり、世界で最長規模の木造建築とされています。

耐震性にも優れ、「地震が来れば建物は揺れる」という前提で、その基盤に大量の砂と粘土を層のように積み上げて地震の衝撃を吸収する「版築(はんちく)」、柱と柱を二本の梁(はり)で接続する「二十虹梁(にじゅうこうりょう)」などの工法が用いられ、京都に強い地震が来ても倒壊しない構造になっています。

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Photo by Fredrik Rubensson – Sanjusangen-do

堂内を奥へと進むと…いよいよ、三十三間堂の名を世に知らしめる『千手観音立像(せんじゅかんのんりつぞう)』が見渡す限り立ち並ぶ、南北に長い本堂に入ります。

立ち並ぶ観音様と張りつめた空気

その数は千一(1001)体ともう一体の、合わせて千二(1002)体とされていますが、これはインドで「1000」という数字が「無限」を表し、「無限に多大」の意味があるとされているのです。

ところで、千手観音像の腕は、本当は何本あるのでしょうか?

いくら何でも「千本の手」なんて凄すぎますよね。実際の数は「四十二本」。

これでも凄い数ですね…。

堂内は、話をすることも物音をたてることも許されないような、厳粛な冷気…いや『霊気』と呼んでも間違いではない空気に満ちています。

…よく見ると、観音様は一体一体が違う表情をされているのですね。

『千手観音』と呼ばれるその理由は、この観音様が、天国から地獄までの「二十五の世界を一つの手で救う」とされているからです。

観音様に付いている四十二本の腕のうち、胸の前で合掌している二本は「本手(ほんて)」、その他の四十本は「脇手(わきて)」と呼ばれています。千手観音は、本手二本を合掌させながら、脇手四十本で、二十五の世界を四十回救済するのです。

…ここで算数の問題です!!! 「25×40」は!?

…1000!!! 故に『千手観音』と呼ばれているということですね。

多くの苦しみ悩み迷える人々が、救いを求めるのも無理はありません。

三十三間堂は頭痛を治す!?

三十三間堂を建立した後白河上皇は、長く頭痛に悩まされていました。

ある時、現在の三重県熊野の神社に参拝し、頭痛が治るように祈願したところ、数日後、上皇の夢にお坊様が現れ、「あなた様の前世は熊野の『蓮華坊』というお坊様で、その髑髏(どくろ)が、熊野に近い『岩田川』に沈んでおり、その目から柳(やなぎ)の木が生え、風が吹くたびに髑髏が動くので頭痛がおきるのです」と告げたのです。

上皇は早速、岩田川を調べさせたところ、そのとおり髑髏が見つかり、慎重に持ち帰って三十三間堂の千手観音の中に納め、柳の木で屋根を支えたところ、頭痛が治ったと言われています。

三十三間堂の正式名称『蓮華王院本堂』は蓮華坊から頂いたもので、この言い伝えから三十三間堂は「頭痛封じのお寺」として崇められ、『頭痛山平癒寺』とも呼ばれています。千手観音立像の中の一体、「四十号像」(湛慶作)、頭痛を治してくださるのでしょうか。

千手観音立像
出典元:「ウィキペディア、フリー百科事典」の「三十三間堂」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/三十三間堂

三十三間堂には千手観音立像の他にも、世に有名な仏像がお堂を見守っています。

本堂の中心に鎮座するご本尊の「千手観音坐像(せんじゅかんのんざぞう)」は、鎌倉時代に活躍した仏師、湛慶(たんけい)の作で、国宝に指定されています。

さらには、江戸時代初期の画家、俵屋宗達(たわらやそうたつ)作の屏風で有名になった「木造風神雷神像(もくぞうふうじんらいじんぞう)」、様々な表情を見せる28体の神様「二十八部衆像(にじゅうはちぶしゅうぞう)」が、三十三間堂の歴史を刻んでいます。

若者よ、あの大的を撃て!!!

毎年1月15日近い日曜日になるとここ三十三間堂では、冬の京都の風物詩とも呼べる『三十三間堂大的全国大会』という行事が開催されます。

この行事は、新成人を迎えた弓道有段取得者、称号取得者のみなさんが、本堂横に設定された特設射場から約60m先の大きな的を目がけて矢を放ち、その腕を競うもので、『通し矢』『大的大会』とも呼ばれています。

行事の起源は江戸時代、全国各藩の弓道の達人が、ここ三十三間堂本堂の軒下で矢を射った『大矢数(おおやかず)』という行事に遡ります。伝説では平安時代末期の1156(保元元)年頃に、猟師の蕪坂源太(かぶさかげんた)という人物が初めて行ったとされ、彼は日頃から200m以上先を走る鹿(シカ)も、外すことなく射止めたと言われています。

レベルの高い競技を勝ち進んだ選手同士で行われる決勝戦は、的の大きさが小さくなり、競う人も見る人も緊張感に満ちた場面が展開されるのです。

弓道で鍛え磨いた強い心と体で、新成人のみなさんは三十三間堂から社会へと旅立って行くのですね。

三十三間堂に関わるもう一人の超有名人物

天皇退位後も絶大な権力を誇った後白河上皇、平氏のリーダーとして世に栄えた平清盛の二人が中心となって建てられた三十三間堂。

この二人にあやかろうと三十三間堂に目を付けたのは、戦国の世を治め天下を統一した、あの豊臣秀吉です。

豊臣秀吉はその権力を大きく天下に示すため、三十三間堂のすぐ北側に方広寺(ほうこうじ)というお寺を建てた上、奈良の大仏よりも大規模な大仏様を建立しました。さらに何と、三十三間堂を方広寺の境内に取り込み、土塀で囲わせたのです。

豊臣家の家紋「五三桐」

家紋
出典元:「日本の歴史の面白さを紹介! 日本史はくぶつかん」内「三英傑の家紋について。信長、秀吉、家康が使った家紋とは?」より

全長が100m近くに及ぶ『太閤塀(たいこうべい)』、さらに秀吉が可愛がり後継者に指名した豊臣秀頼(とよとみひでより)が建てた『南大門(なんだいもん)』が現在も存在しており、その瓦(かわら)には、豊臣家の家紋である「桐の紋」が刻み込まれています。

でも、後白河上皇や平清盛が建てた三十三間堂をも所有してしまうとは、豊臣秀吉はものすごい権力者だったんですね…。

京都タワーと三十三間堂

三十三間堂付近からは京都タワーがよく見えます。

京都タワー
Photo by Manabu Kato in December 5, 2017

逆に京都タワーから見た三十三間堂。

京都タワーから見た三十三間堂
Photo by Manabu Kato in December 7, 2017

タワーから東へ直線距離で約1.1km。長い屋根がよくわかりますね。

上に見えるお寺は智積院です。

三十三間堂 旅のまとめ

三十三間堂を創建した後白河上皇と平清盛は、やがて対立関係となります。

でも三十三間堂は、直後に起きる平氏と源氏が世の覇権をめぐって戦った『源平合戦』にも、京都のほぼ全土が焼け野原となった『応仁の乱』の戦火にも、各地で戦乱が絶えなかった戦国時代にも、明治時代に多くの寺社仏閣が弾圧された『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』にも失われることなく、現在に至っている数少ない寺院なのです。

本堂に見渡す限り立ち並ぶ千手観音立像の中には、亡くなった人の面影が宿っている像があると伝えられています。

堂内に満ちわたるあの厳粛な空気と、世の人々を救おうとする慈悲の心が、この三十三間堂を守り続けているのかもしれませんね。

千手観音

…私たちは日常生活の中で、お寺に参拝する時や、食事をする前の「いただきます」、食事をした後の「ごちそうさま」の時に、必ず手を合わせる…つまり「合掌(がっしょう)」をします。

実は数多い仏像の中で、この「合掌」をしているのは、千手観音だけなのです。崇拝と感謝の気持ちの表れですね。

三十三間堂の空気に包まれれば、私たちは日頃忘れかけていた気持ちを思い出すでしょう。

今日も、平和な生活と、食事を頂けることに感謝して…合掌、「いただきます」「ごちそうさまでした」。

インフォメーション

三十三間堂へのアクセス

  • JR京都駅前バスターミナル「D1乗り場」から京都市バス「100系統」「206系統」「208系統」乗車。約10分(230円)、「博物館三十三間堂前」下車。三十三間堂入口まで徒歩約3分。

但し京都市内は交通渋滞が激しいため、倍の時間がかかることは心しておきましょう

  • 時間と体力に余裕があれば、徒歩(約1.9km、約20~30分)で行くことも出来ます。

コースは様々ですが、京都駅前から京都タワー方面へ信号を渡り右折して「塩小路通」へ。最初の信号を左折して「東洞院通」を北進。次の信号を右折して府道113号線「七条通」を東進。3つ目の信号の「河原町七条交差点」を進み、4つ目の信号を過ぎると鴨川「七条大橋」を渡る。さらに数えて4つ目の信号で右折すると三十三間堂入口。

三十三間堂の拝観料

  • 大人…600円  中高生…400円  小人…300円
  • 団体料金(25名以上)  大人…550円  中高生…350円  小学生…250円

三十三間堂の拝観時間

  • 8時00分~17時00分 (11月16日~3月31日は9時00分~16時00分)

年中無休、拝観受付終了は閉館30分前。

三十三間堂ホームページ

http://www.sanjusangendo.jp

毎年1月15日に近い日曜日に開催される『三十三間堂大的全国大会』の日は、後白河上皇の頭痛を治したご利益にあやかる「楊木のお加持(やなぎのおかじ)」という重要な法要が同時に行われることもあって、拝観料は無料になります。

三十三間堂は、大半の場所で写真撮影、動画撮影、スケッチが厳禁されていますのでご注意ください。

徒歩で回れます。三十三間堂周辺の名所

三十三間堂の周辺には、多くの観光名所や寺社仏閣があります。

いずれも徒歩で回れますので、ぜひ足を運び、見学・参拝してみましょう。

【京都国立博物館】

三十三間堂の向かい側、信号を渡って徒歩約3分。1897(明治30)年5月開館、平安時代から江戸時代にかけての京都を中心とした多数の文化財を収集、保管、展示しています。

【豊国神社】(とよくにじんじゃ)

三十三間堂から徒歩約10分。豊臣秀吉を「豊国大明神」として崇め祀る神社で、1599(慶長4)年に創建されました。明治時代に、明治天皇の命により修復されています。

【方広寺】(ほうこうじ)

三十三間堂から徒歩約13分。

豊国神社のすぐ北にあり、1595(文禄4)年に豊臣秀吉によって創建され、同時に大仏も建立されましたが、翌年起きた大地震で大仏は倒壊しました。

秀吉の死後、その子豊臣秀頼がお寺の鐘楼に刻んだ「国家安康・君臣豊楽」の文言を、「家康を引き裂き、豊臣を君主とする」という意味に解釈した徳川家康が激怒したことから、豊臣家との戦が始まったとされています。

【智積院】(ちしゃくいん)

三十三間堂から徒歩約10分。

真言宗智山派総本山の寺院として、1598(慶長3)年に創建されました。

ご本尊は金剛界大日如来です。

【妙法院】(みょうほういん)

三十三間堂から徒歩約6分。

天台宗の寺院として平安時代初期に創建されました。

ご本尊は普賢菩薩です。

ポルトガルから豊臣秀吉に宛てた外交文書が保管されているとの事です。

【法住寺】(ほうじゅうじ)

三十三間堂から徒歩約5分。

天台宗の寺院として、988(永延2)年に創建されました。

平安時代に作られたとされる「身代不動明王像」がある他、国民的人気漫画「サザエさん」の作者、長谷川町子さんの菩提寺としても知られています。

【七条大橋】(しちじょうおおはし)

三十三間堂から徒歩約10分。

京都市内を流れる鴨川に、1913(大正2)年4月に開通した五連鉄筋コンクリートアーチ橋で全長82m、全幅18m。現在、鴨川に架かる橋の中では最も古い橋です。

橋の上は京都府道113号線(七条通)が通り、京都盆地をめぐる山並みがよく見渡せます。